日野市の紹介 日野市の地形 日野の鉄道 日野市の学校 日野の地名由来 日野の歴史

                                                               日野市の紹介


私どもの事務所があります「日野市」をご紹介させていただきます。

「日野市」は、都心から西に35qほどの場所に位置し、北側を多摩川、中心部に浅川が流れ、南側に多摩丘陵と水と緑に囲まれたまちです。

湧水にも恵まれ、国土交通省の「水の郷百選」に認定されています。

 交通の便もかなりよいまちです。甲州街道、川崎街道の二つの街道が走り、また、昨年日野バイパスが全面開通したことにより、中央道国立インターチェンジへのアクセスも容易になりました。

 鉄道は、JR中央線・京王線の二つの鉄道が走り、都心などへ勤務する方には、乗り換えなしで通勤できる利便性が喜ばれています

 この二つの路線を結ぶ多摩都市モノレールも通っています。甲州街道駅、万願寺からどちらの路線へもアクセスできます。多摩都市モノレール沿線は、区画整理も進み新たな街並みを形成しております。

 また、歴史のまちでもあります。みなさまにもなじみの深い、「新撰組のふるさと」といわれております。新撰組の鬼の副長といわれた土方歳三や「源さん」こと六番隊長・井上源三郎が生まれたまちであります。

甲州街道沿いには、土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の屋敷が日野宿本陣として保存されとおり、見学することができます。

 「新撰組のふるさとを訪ねるみち『日野』が、社団法人日本ウォーキング教会の「美しい日本の歩きたくなる道500選」に選ばれています。


                          (土方歳三)
                                                              日野市の地形

大きく丘陵地、台地、低地の3段からなっています。また、北部を多摩川、市の中央部を浅川が流れており、多様性に富んだ地形となっております。

浅川流域の右岸(南側)は、多摩丘陵と呼ばれる起伏の富んだ丘陵地です。これは、神奈川県の三浦半島まで続く広域的な丘陵地であり、日野の緑の骨格を形成しております。この地域は、住宅地が多いところですが、樹林地や湧水が残っています。

 浅川左岸(北側)は、台地であり、そこから浅川に降りる2段の段丘崖があります。台地上は、住宅地と多摩地域有数の工業地を中心とした土地利用がされています。

 浅川と多摩川沿いの沖積低地は、住宅地と農地が共存する土地利用となっています。この地域では、日野でも数少なくなってきた水田がひろがり、そこへ水を導く用水が網の目のように張り巡らされ、総延長約180qに及び、日野の農の骨格を形成しています。

 また、農地は減少しているものの東光寺(新町付近)、川辺堀之内、新井、豊田、西平山、倉沢(百草付近)地区などでは、今なお都市農業が積極的に営まれています。



                                                              「日野の鉄道」

日野には三つの鉄道が走っています。

JR中央線・・・日野駅より中央特快で新宿まで29分、東京駅まで43分
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京王線・・・高幡不動駅より特急で新宿まで28分
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多摩都市モノレール線・・・甲州街道駅より立川南駅まで5分、高幡不動駅まで5分
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                                                 日野市の学校」

日野市は学校を選べます

「日野市」では。「選べる学校制度」が採用されています。この制度は小学校を八つのブロック、中学校を四つのブロックに分けて、ブロック内の学校を保護者に選択してもらおうという制度です。

 平成13年4月の新入生からこの制度を使って学校を選ぶことができるようになりました。ブロックの境の地域に住んでいる場合は、隣接する他のブロックの学校から、住まいに最も近い学校を選ぶこともできます。

  ・対象は、来春小・中学校に入学する新一年生です。
  ・選択しない場合は、通学区域に関する規則に基づく指定校(住所によって決まる学校)への入学が決まります。
  ・「日野市」へ新たに転入、もしくは「日野市内で転居する児童・生徒もこの制度を利用することができます。
  ・入学後は、転居やいじめ等教育的配慮を要する場合を除いて、原則として新たに学校を選択して転校することはできません。

学校を選びための情報は学校から学校公開・学校説明会を行います。

下記に私立の幼稚園、小学校、中学校の一覧を載せておきます。


日野市立の小学校・中学校・幼稚園

小学校
校名 所在地 TEL FAX
日野第一小学校 日野本町2-14-1 042-581-0061 042-581-0073
日野第二小学校 東豊田2-14-1 042-581-0070 042-581-0851
日野第三小学校 日野台2-1-1 042-581-0101 042-581-0850
日野第四小学校 石田430 042-581-0038 042-581-3076
日野第五小学校 多摩平6-21 042-581-0407 042-581-0445
日野第六小学校 多摩平3-21 042-581-4686 042-581-0366
日野第七小学校 神明3-2 042-583-3907 042-583-3908
日野第八小学校 三沢200 042-591-2411 042-591-2412
潤徳小学校 高幡402 042-591-0409 042-591-0410
平山小学校 平山4-8-6 042-592-6381 042-592-6382
滝合小学校 西平山2-3-1 042-583-5172 042-583-5173
南平小学校 南平4-18-1 042-592-2021 042-592-2022
旭が丘小学校 旭が丘5-21-1 042-583-3733 042-583-3748
東光寺小学校 新町3-24-1 042-584-6200 042-584-6201
仲田小学校 日野本町6-1-74 042-581-8511 042-581-8512
夢が丘小学校 程久保1-14-2 042-591-7011 042-591-7012
七生緑小学校 百草999 042-591-0998 042-591-0997
中学校
校  名 所在地 TEL FAX
日野第一中学校 日野本町7-7-7 042-581-0009 042-581-0023
日野第二中学校 多摩平4-5-2 042-581-0056 042-581-0116
日野第三中学校 程久保650 042-591-2228 042-591-2221
日野第四中学校 旭が丘2-42 042-583-3905 042-583-3915
七生中学校 南平6-7-1 042-591-0174 042-591-0178
三沢中学校 三沢1-17-4 042-592-5017 042-592-5032
大坂上中学校 大坂上4-17-1 042-583-9756 042-583-9696
平山中学校 平山4-21-3 042-593-3015 042-593-3014
幼稚園
園  名 所在地 TEL/FAX
第二幼稚園 平山4-5-4 042-591-4125
第三幼稚園 日野本町2-14-1 042-581-7127
第四幼稚園 石田431-6 042-583-3903
第五幼稚園 三沢175 042-592-0432
第七幼稚園 旭が丘2-42 042-586-3770

                                                  「日野」という地名の由来

日野の地名のおこりについては、3つの説があります。(参考文献『日野市史 民俗編』<日野市史編さん委員会発行>)

  1.飛火野説
    上古武蔵国国府が府中にあったころ、日野台地の上に烽火台(のろしだい)を設けたという伝説から起こり、はじめ火野と書いたが、
    和銅6年(713)火野を日野に改めたという説(『武蔵名勝図会』より)

  2.日奉宗頼(ひまつりむねより)の日の宮説
    武蔵七党のうち西党の祖日奉宗頼が、遠祖天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を勧請して、日野宮権現を祀ったという伝説に
    基づくという説(『新編武蔵風土記稿』より)

  3.日野中納言の来住説
    応永32年(1425)のころ、日野中納言資朝の玄孫、宮内資忠なるものが、当所に移住して土淵ノ庄をはじめて日野と号した説

  (日野市ホームページより)

(高幡不動) 

                                                                     日野の歴史

                                                                 (日野市のホームページより)


 早くも約50,000年前の先土器時代から、多摩丘陵に人々が住み始め、縄文早期(約10,000年前)には、日野台地周辺に集落ができました。

 縄文後期になると低地にも人々が移り住むようになり、その後、6世紀ごろには、大規模な集落が形成されるようになります。

 平安時代後期、京から来た日奉宗頼が日野に土着して、西党と呼ばれる武士集団の祖となります。西党日奉一族は多摩川沿いに展開し、市域とその周辺には、多西(西)・高幡・上田・田口・平山・土渕・田村・立河などの各氏が見られ、中でも平山季重は、源氏に従って一谷の合戦等で武功をたて、その勇猛果敢ぶりが広く知られた武将でした。

 また古代末期から中世にかけて、現在の百草園一帯には、鎌倉幕府にとっての「祈祷の霊場」であった真慈悲寺が存在していたことが次第に明らかになってきました。
 
 中世の日野市域は、船木田荘と吉冨郷。得恒郷・土渕郷から成っており、鎌倉時代後半から戦国にかけては、高幡高麗氏の一族が高幡不動周辺を始めとする浅川流域を支配していました。

 高幡山金剛寺(高幡不動)は、多くの文化財があることで知られ、四季を通じて参詣客が絶えない市内随一の古刹ですが、建武2年(1335)の大風によって甚大な被害を受け、暦応2年(1339)〜康永元年(1342)にかけて、別当儀海上人、大檀那高麗助綱らにより大規模な修復が行われました。

 不動堂本尊の不動明王坐像(国指定重要文化財)内には、以前から文書が納入されていたことが知られていましたが、近年の調査によって、それらが、北朝方として常陸合戦に出陣した山内経之の手紙を多く含んだものでであることがわかりました。手紙には、合戦の苦しさや留守中の家族や領地に対する心配が綴られており、片面には不動明王や大黒天が印仏されています。高幡不動像内文書は、おそらく合戦で討死した山内経之の供養のため、故人の手紙に印仏し、修復されたばかりの不動明王に納入されたのではないかとも考えられています。

 永禄(1558〜1570)の頃から日野市域は小田原北条氏の支配下にはいり、北条氏照は滝山城、のちに八王子城を拠点に多摩地域の開発を積極的に進めました。美濃国から移住してきた佐藤隼人は、永禄10年(1567)、北条氏照の協力の下で日野用水を開削しました。また天正14年(1586)の文書には「日野惣郷」の名がみられます。

 江戸幕府が開かれると、日野市域は幕府直轄地と旗本領となり、慶長10年(1605)甲州街道が整備され、日野宿が置かれました。

 貞亨元年(1684)、日野宿の助郷村42ヶ所が定められ、現在の市域の大部分の村が含まれました。同年、万願寺の渡しが上流の日野の渡しに変更され、渡船場は日野宿の経営となりました。

 享保8年(1723)には、武蔵の新田開発の一環として、高倉原(日野市多摩平、富士町、旭が丘、日野台、さくら町、八王子市高倉町近辺)が開発され、日野地域の農業生産力は一段と高まります。

 江戸時代後期になると、関東の農村で荒廃が目立ち始めたため、文化2年(1805)、幕府は関東取締出没を設置し治安維持の強化に務めました。文政10年(1827)には、取締組合村を作るよう幕府からの通達があり、文政12年(1829)には、日野宿を寄場とする日野宿組合村が組織されました。

 幕末になると、度重なる外国船の来航に伴う幕藩体制の動揺などで治安がさらに悪化し、日野宿では、問屋(日野本郷名主兼帯)佐藤彦五郎の天然理心流への入門をきっかけに、剣術が盛んになりました。

 当市出身の土方歳三と井上源三郎は、佐藤道場で出会った近藤勇や沖田総司らと共に上洛し、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる幕末の京都で新撰組を結成しました。新撰組は京都の治安維持に尽くしましたが、やがて徳川幕府は崩壊し、井上源三郎は鳥羽伏見の戦いで、土方歳三は箱館で亡くなりました。

 明治に入ると、多摩地域は神奈川県に属することになりました。明治22年の市制・町村制の施行により、日野宿(上宿、中宿、下宿の町場と東光寺、四谷、北原、下河原、万願寺、谷戸、仲井、山下の枝郷からなる)、桑田村(豊田、川辺堀之内、上田(かみだ)、宮、万願寺、下田、新井、石田の各村が合併)、七生村(平山、南平、高幡、程久保、三沢、落川、百草の各村が合併)が誕生し、明治28年多摩地域が東京府に編入され、日野宿は「日野町」に改められます。明治34年、日野町と桑田村が合併。この間の明治22年、甲武鉄道(現在の中央線)の新宿-八王子間が開通し、翌年日野駅が開設されました(豊田駅の開設は明治34年)。

 大正14年には、府中-八王子間に玉南電気鉄道(現在の京王線)開通しています。

 昭和に入ると、世界恐慌のあおりを受けて昭和恐慌に陥りますが、日野町ではこの打開策として工場誘致を展開しました。昭和10年前後には「日野五社」を始めとする企業の進出が続き、周辺地域から注目を集めました。

 一方、農業恐慌下の七生村は、農村経済更正運動の波に乗り、昭和7年、経済更正村に指定されました。昭和14年には東京府拓務訓練所が開設され、昭和20年には、分村計画のあった七生村の勤労奉仕隊員たちが満洲の新東京報国農場へ渡りました(幾多の苦難を乗り越え、昭和21年8月帰国)。

 米軍機の本土空襲が激しくなった昭和19年には、日野にも都内赤坂区や、品川区か児童が疎開してきました。市域は幾度かの空襲に遭っていますが、最大だった昭和20年4月の空襲では、死者28人を出しています。

 昭和33年、日野町と七生村が合併し、新しい日野町となりました。そして昭和38年、市制が施行され「日野市」となりました。この時、55,595人だった人口は、その後急激に増加し、昭和58年には15万人を越えまいしたが、近年この人口増加も落ち着きをみせています。

 現在では、先端技術産業が立地する一方で、公共施設の充実や都市基盤の整備などが進められ、17万人の市民が住む自然に恵まれた住宅都市としてさらなる発展を続けています。